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かたづけとおしゃれのブログ

危ない断捨離ハイ

片付けには体力も気力もいるし、捨てるだけではなくて場合によっては新たに物を受け入れる必要があり、そのための財力もいるし、お金を使う胆力もいる。というのが前回のポスト。

 

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 物を仕分けし、それらに応じた処分方法を調べ、実行する。策を講じた最終手段としてゴミにせざるを得ないときでも、今ある物を吟味し、過去の自分を責めたり赦したり忙しい。

 

ただ、次に新たな物と出会う時に自制心を持てるのは、こういう労力を払ってからこそだと思う。最近多い「手放す」という表現は処分にまつわる罪悪感を軽くするが、あまりにも苦しみが軽いと「断捨離ハイ」を起こす可能性がある。この春のクロゼットの片付けで気をつけたことのふたつ目がこの断捨離ハイだ。

 

最初は躊躇していた「処分する」という判断も、勢いがつけばどんどん進む。それが「とりあえずゴミ袋に突っ込む」などの比較的容易な方法であれば、勢いはさらに増しやすい。気づけば血に飢えたハンターのように、捨てるものを探してゴミ袋を手に家の中を徘徊するのだ。かつての恋人を乗せた自動車ごとゴミの破砕機に突き落とすように、かつて自らが受け入れた物を今度はゴミに変えようとする。そんな状況で物の吟味ができるかといえば相当怪しい。

 

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今まで何度か所有物と住空間の見直しを試みてきて、満足がいく成功が見られなかったのは、この断捨離ハイを起こしていたからだと省みている。ハイになって捨てているから要不要の判断が甘い。本当は大切だったものを勢いに任せて捨てた後、冷静になったら、そこに開いた穴をそのままにしていられるだろうか。

 

アレキサンダー・マックイーンの初期コレクションのスカートを捨てたことがある。何度も着た服だが適切な別れ方ではなかったのだろう。今もその時のゴミ置場の光景を時々思い出す。破砕機に飲み込まれる自動車の中での恋人の表情のように、諦めたように、許しを乞うように、あるいは惨めに見えるが、惨めなのは本当は今もそれを思い出す自分なのではないか。断捨離ハイは怖い。断捨離モードの時こそ気をつけねばならない。

 

  認知行動療法創始者、敬愛するアルバート・エリス先生の著書。長い顔も好みです(?)